端唄俗曲選集(8)

「朝顔」

朝顔の 
露の命の はかなさは
ほんに居るやら いないやら
ひと目見るにも 目は見えず
何とこの身は しょうぞいな

嘉永元年(1848年)八月江戸市村座「絵入稗史葵物語(えいりしょうせつあさがおものがたり)」(通称・朝顔日記)で上演された時に作られた江戸端唄芸州(広島県)岸戸の家臣秋月家の息女深雪は、宇治の螢狩りで宮城野阿曽次郎という美しい侍を見初め、その形見として金地に朝顔の花を描いた扇を貰い受け生き別れとなる。後に深雪は親の進める縁談の相手「駒沢次郎佐衛門」が改名した阿曽次郎とも知らず、阿曽次郎を慕って家出をする。恋する男を求めて流浪するうちに盲目となっても行方をたずねる。果ては「露の干ぬ間」の唱歌を琴に合わせて唄う朝顔と呼ばれる門付けとなる。阿曽次郎は公用で江戸へ向かうが同行の同輩岩代多喜太が意地悪な目を光らせている。島田の宿で阿曽次郎は盲目の女芸人を呼んで琴を弾かせ、偶然にその女が朝顔と名乗るようになった深雪だとわかる。だが阿曽次郎は同輩の手前もあって名乗るに名乗れず出発する。阿曽次郎が残していった品々から恋い焦がれた人と知って狂気のごとく後を追った朝顔は大井川の川止めにあい、悲嘆のあまり死のうとするが阿曽次郎の残していった薬で両目がよくなり、尚も阿曽次郎の後を慕って行くというのが芝居の流れです。

 

「越後の国」

越後の国の 角兵衛獅子
国を出る時ゃ 親子連れ
獅子をかぶって
コリャでんぐり返って
ちょいと立ちまする
親父ゃまじめに 笛を吹く
ドドンガヤッサ ドガヤッサ

越後獅子は越後国(新潟県)蒲原地方の郷土舞踊の獅子舞が諸国を廻る門付け芸となったもの京では「越後獅子」江戸では親方の角兵衛をとって「角兵衛獅子」と呼ばれた

 

「おんことこと」

一、おん琴ことこと ちょいと三味よ
  ちょいとした端唄 ちょいと鼓
  トッチリ大鼓 スタスタスタ
  デンデンデンデン 太鼓の音
  ちょいとした胡弓で
  ちょいと笛よ

二、桐に鳳凰 つばめ鳥
  つばめに柳は 梅の枝
  梅に鴬 ホーホケキョ
  牡丹に蝶々 獅子頭
  猫またねずみに かつおぶし

三、うさぎの鉢巻き そりゃ勇み
  勇みの蒲焼き そりゃ鰻
  鰻は風吹く そりゃ南
  南は恐いもの そりゃ津波
  津波は忠臣蔵 そりゃ小波

四、番頭が竿さしゃ そりゃ船頭
  船頭が撞木杖 そりゃ検校
  検校は池に住む そりゃ金魚
  金魚喰や若くなる そりゃ人魚
  人魚は楽なのも そりゃ隠居

五、屏風が衣着る そりゃ坊主
  坊主は紙を貼る そりゃ生麩
  生麩は帷子 そりゃ上布
  上布は四角い物 そりゃ豆腐
  豆腐までいうても きりがない

この曲は明治から昭和の始めにかけて邦楽の稽古事を習わす曲として使われ、当時は琴、三味線、鼓、太鼓、胡弓、笛や唄を唄う姿勢など、邦楽の基本的動作や形をこの曲によって教えこんでいました。二番以下は尻取り唄で、当時の風物を飄逸な口調で唄っています。

 

「今朝の雨」

今朝のナ 雨にしっぽりと
また居続けに 長き日を
短う暮らす 床の内
紙を引き裂き 眉毛をかくし
もし こちの人へ 
わたしの替名は 何としょう
あれ寝なんすか 起きなんし
曙ならで 暮れの鐘

この唄は安政三年(1856年)四月江戸中村座で「一曲奏子宝曽我(ひとかなでこだからそが)」上演の時に作られた江戸端唄唄の意味は春雨の降る廓の夕暮れ、ずっと床を敷いたままで居続けをする五暁と瀬川とのやりとりを唄ったもの
アレ寝なんすか 起きなんし:瀬川の耳に聞こえるのは、明けの鐘ではなく暮れ六つの鐘
紙を引き裂き 眉毛をかくし:江戸時代の人妻は眉毛を剃り、歯ををお歯黒に染めた 遊女の瀬が五暁に向かって年期が明けてお前と一緒になる時はこうして、と紙で眉毛を隠して見せるところ
こちの人:廓言葉ではなく妻が夫を呼ぶ言葉
わたしの替名は何としょう:素人になった時の名は何にしたら良いでしょうかと、二人が晴れて所帯を持つ日の夢を語り合うところ

 

「五本松くずし」
 益田太郎冠者:作詞・作曲

一、アー南無妙法蓮華経こそ
  一代大菩薩と 唱えるよりも
  あなたと私の むつごとは
  オヤマ ホントニマ
  ありがたいよ

二、アー四海波謡うて 
  貰うた女房でさえも
  切れる時ゃ切れる
  まして我々風情の
  口約束では尚のこと
  オヤマ ホントニマ
  じれったいですネ

島根県民謡「関の五本松」をもとに作られています
むつごと:むつまじく語る言葉、特に男女の「閨(ねや)」(寝室)の中での語らい
四海波謡う:婚礼の時に謡う「高砂」のこと

 

「桜見よとて」

桜見よとて
名をつけて まず朝桜
夕桜 よい夜桜や 
間夫は昼廓へ エーどうなと首尾して
逢わしゃんせ 何時じゃ
オヤ引け過ぎじゃ 誰哉行燈
ちらりほらり 金棒引く

当時の江戸で若旦那が取り巻きを連れて、朝から家を出て上野か飛鳥山の花見に繰り出した揚げ句に、向島の夕桜から吉原の夜桜まで延びてしまった遊女から「間夫は引けすぎ、という諺もありんす通り、情人は宵のうちには来ないで引けすぎにゆっくり逢いに来るもんざます主さんも今夜はどうぞ首尾して(都合をつけて)、わちきの間夫になっておくんなし」という甘い口調に乗せられて、とうとう引けすぎまで遊んでしまったという呑気な時代の花見風俗を唄ったものでしょう頭から「間夫の昼廓とえ」までが男、「ええどうなと首尾して逢あしゃんせ」は女、「何時じゃ」が男、「引けすぎじゃ」が女となるすでに仲の町一帯の辻行燈の灯も消えかかり、人影もまばらに廓内の夜警の持つ金棒を引く音も早立って来るというのが「誰哉行燈ちらりほらり、金棒引く」である
間夫:情夫、特に遊女の情夫
引け:張見世の遊女が一斉に座敷なり、部屋へ下がる時刻のこと=夜中12時 昼は九つより七つ(正午~四時)夜は六つより四つ(六時~十時)
誰哉行燈(たそやあんどん):江戸時代に使用された行灯「誰哉」とは古語で「どなた」の意
江戸の夜は暗く、日がとっぷり暮れると通りすがりの人の顔も見分けられないほどで、「あなたはどなた」と尋ねなければならなかった
黄昏(たそがれ 誰そ彼は、の意)なども同じ仲間のことば その薄暮に行灯の油に火を灯点したのが誰哉行灯

 

「字余り都々逸」

一、洗い髪の 投げ島田を
  根からぷっつり切って
  男の膝へたたきつけ
  これでも浮気がやまないならば
  芝居のお化けじゃないけれども
  ヒュードロドロと 化けて出る
  ハァー ア コリャコリャ

二、これはこれは 御両所様には
  見苦しきあばら屋へ
  ようこそ御入来
  ほんのささいな内緒事
  おかまいなくとも
  お通りあって  
  お煙草なりとも 召し上がれ
  ハァー ア コリャコリャ

三、あたしゃ紋付き
  おとっつぁんは米つき
  おっかさんは嘘つき
  姉さんが色気づき
  そのまた妹が狐つき
  ハァー ア コリャコリャ

「都々逸」は俗曲の王座を占める唄で、曲は本調子で七、七、七、五、の四句二十六文字を本格としています 
これを当時の通人たちがわざと二十六文字より字を多くしてケレン風に唄うことを試みたのがこの「字余り都々逸」で、この方が面白おかしく、また、乙に聞こえると大変流行しました 
特に二番の「これはこれは ご両所様には」は「仮名手本忠臣蔵」六段目「与市兵衛 住家の場」で、不破数右衛門、千崎弥五郎の二人侍が訪ねてきた時の早野甚平のセリフをとった面白いもので、「おかまいなくとも」までが本文の通りで、「お通りあって」以下は都々逸の文句になっています

 

「粋な浮世」

粋な浮世を 恋ゆえに
野暮に暮らすも 心がら
梅が香そゆる 春風に
二枚屏風を おしへだて
おぼろ月夜の 薄明かり
忍び忍んで 相惚れの
口説の床の 涙雨
池の蛙も 夜もすがら
しんに啼くでは エーないかいな

当時花柳界の巷で遊ぶ男女はその日その日の風次第、柳々で世を面白く遊ぶのが「粋」で、この間に恋を求める事を「野暮」の至りとされていたここで唄われた二人は何の因果か互いに命までも惚れ合っている野暮な仲で、梅の花が香る夜にとある一室で忍び逢う場面を唄ったもの
口説:おしゃべり
夜もすがら:日暮れから夜明けま 一晩中

 

「大工さん」

一、恋の深さを 
  恋の深さを 大工さんに問えば
  大工さんも 頭領さんも
  アンあっきれけって
  のみかんな すみつぼ 
  差し金 投げ出した
  トナットナット
  学生納豆 甘納豆

二、選挙どこへ行く
  選挙どこへ行く 陣笠かぶり
  有権者の 玄関先
  がんがんがらがんの 火事見舞い
  トナットナット
  学生納豆 甘納豆

三、はげた頭へ
  はげた頭へ 灸をすえて
  熱けりゃ 汗出せ
  じゅんじゅんじゅらじゅんの
  じゅっと消えまする
  トナットナット
  学生納豆 甘納豆

出だしの「恋の深さを~」を原唄では「穴の深さを~」と唄っていましたこれは建築する土台の深さを恋の深さにかけたものですが、のちに「恋の深さを~」と唄うようになりました
学生納豆:大正7,8年頃から東京市内で苦学生が夕方苞(つと)に入った納豆を売ることが流行した
「ナットナット・・」は学生納豆の売り声

 

「手古舞木遣り」
たなかゆきを:作詞・初代藤本琇丈:作曲

お江戸名物 神田の祭り
葛西繰り出す 馬鹿囃子
喧嘩御輿と 屋台の仲を
つなぐ手古舞 木遣り節
ヤーンリョー
粋じゃないかえ つぶし髷
サーエー格子づくりに 御神灯下げて
兄貴ゃ家かと 姐御に問えば
兄貴ゃ二階で 木遣りの稽古
音頭とるのは ありゃうちの人
エンヤラネ サノヨイサ エンヤラネ
エンヤラヤレコノセ
サノセ アレワサエンヤラネ

きつね格子に 江戸紫の
幕が景気に 色添える
辰巳育ちの 気っ風の良さに
祭り化粧が また映える
ヤーンリョー 花の手古舞勢揃い

神田明神の祭礼と土地の芸妓連の手古舞姿に「木遣りくずし」をからませた新作で昭和48年につくられました
手古舞:江戸時代の祭礼の余興に出された舞でもとは氏子の娘が扮しましたが、後に土地の芸妓が男髷(つぶし髷)に右肌ぬぎの美しい格好で、牡丹の花を画いた黒塗りの扇を持って扇ぎながら「木遣り節」を唄って出るようになりました
きつね格子:格子の裏に格をはったもの、妻飾りの格子、神社住宅などに多く用いる
御神灯:神に供える燈火、みあかし 職人芸人などの家で縁起をかついで戸口につるした神神灯

 

「なんとしょ節」
 志賀廼屋 淡海:作詞・作曲

一、西瓜屋の向かいに
  西瓜屋が出来て
  西瓜同士の
  アアアー 差し向かい
  なんとしょう

二、うらやましいぞえ
  名古屋の城は
  いつも変わらず
  アアアー しゃち向かい
  なんとしょう

三、びくを片手に
  釣り竿かつぎ
  コイは釣れない
  アアアー ものかいな
  なんとしょう

四、松のぐるりに
  胡桃を植えて
  マツより クルミは
  アアアー なおつらい
  なんとしょう

この唄は民謡の「淡海節」で有名な志賀廼家淡海師の作詞・作曲で初代藤本琇丈師が「淡海節」と共にご本人より伝授されたもの

 

「一声は月」

一声は
月が鳴いたか ほととぎす
いつしか白む 短夜に
まだ寝もやらぬ 手枕や
男心はむごらしい
女心はそうじゃない
片時逢わねばくよくよと
愚痴なようだが
泣いているわいな

安政四年(1857)五月、江戸市村座「時鳥酒杉本」(お梅粂之助)上演の時に作られた江戸端唄で清元の「流星」の中にも採り入れられているこの唄はお梅が松賀屋の寝間で粂之助を想って寝もやらず、夏の短夜を明かす切ない女心を唄ったもの一声は月が啼いたか 
時鳥:一晩中寝もやらぬ耳に時鳥の鳴き声を聞く はっと思って障子を開け今啼いた時鳥はどこかと見れば、声はすれども姿は見えず、ただ有明の月だけが残っている、という情景が唄われています
手枕:うたた寝

 

「冬の寒さ」

冬の寒さに
主を囲いの 四畳半
そして袱紗捌きの 胸の内
しっぽりと投げ島田 
引き寄せてアレサ

「夏の暑さ」の替え唄
袱紗捌き(ふくささばき):茶の湯で袱紗の扱い方
袱紗:茶の湯で茶器の塵をはらい、茶碗を受ける絹布投げ
島田:女性の髪の結い方の一つ 髻(もとどり)の根を下げて結う 島田まげ

 

「柳々」

柳々で 世をおもしろう
うけて暮らすが 生命のくすり
梅にしたがい 桜になびく
その日その日の 風次第
うそもまことも 義理もなし
はじめは粋に 思えども
日増しに惚れて つい愚痴になり
寝床の床の 浮き思い
どうした日和の ひょうたんか
あだ腹のたつ 月じゃえ

文化文政年間の上方の名優三世「中村歌右衛門」の作詞、祇園の芸妓「ゆかえ」の作曲といわれている一説によると大阪の豪商、吉野五運(よしのごうん)(吉野で桜、替紋は瓢箪)の寵妓であったゆかえが五運の贔屓する歌右衛門(俳号・梅玉)と恋仲になってしまったので五運が粋をきかして、ゆかえと歌右衛門を一緒にしてやった事を唄ったのではないか・・・曲はゆかえの女心を唄ったもので「柳々~義理もなし」までは祇園の遊び女(あそびめ)として桜(五運)と梅(歌右衛門)の座敷を勤めていたが「はじめは粋に・・・」からは歌右衛門に強く惹かれていくという内容であろう

 

「淀の川瀬」

淀の川瀬のナ 景色をここに
引いて上る ヤレ 三十石船に
清き流れを 汲む水車
めぐる間ごとは みな水馴れ棹
さいた盃 おさえてすけりゃ
酔うて伏見へ くだまき綱よ
こうした所が 千両松
ヨイヨイヨイヨイヨイヨ

この唄は淀川を通う三十石船と沿岸の水車の風景を唄ったもので、幕末に作られた端唄で後にうた沢でも唄われ大変流行しました
三十石船:積み荷の石数三十石の川船の事で、江戸時代に荷物と客を乗せて大阪~伏見の間の淀川を往復していました
酔うて伏見へくだまき綱よ:船中の乗客が酔って管を巻くことと、船が千両松を目印に伏見の船着場に巻綱を巻く事をかけたもの

 

「わしが国さ」

わしが国さで 見せたいものは
昔ゃ谷風 今伊達模様
ゆかし懐かし 宮城野信夫
浮かれまいぞえ 松島ほとり
しょんがえ

この唄は「さんさ時雨」と同じく仙台地方の俚謡だったものを、幕末の江戸で端唄、うた沢で取り上げ一名「わしくに」といって流行しました
谷風:仙台候の抱え力士、二代目谷風梶之助のこと 宮城県で生まれ江戸へ出て我が国初めての横綱となった人
伊達模様:寛永三年二条城行幸の折りに伊達政宗の家臣がみな華美な服装だったので、京童があれは伊達者(だてもの)と言い始めたのが始まりで、大形で華奢な模様を指す
ゆかし:何となく知りたい、見たい、聞きたい、好奇心が持たれる
宮城野信夫:奥州白石の農家の娘、宮城野と信夫が江戸へ出て父の敵を討った物語 歌舞伎「揚屋」
松島:日本三景の一つ、松島湾の風景を指している

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「朝顔」

朝顔の 露の命の はかなさは
ほんに居るやら いないやら
ひと目見るにも 目は見えず
何とこの身は しょうぞいな

嘉永元年(1848年)八月江戸市村座「絵入稗史葵物語(えいりしょうせつあさがおものがたり)」(通称・朝顔日記)で上演された時に作られた江戸端唄
芸州(広島県)岸戸の家臣秋月家の息女深雪は、宇治の螢狩りで宮城野阿曽次郎という美しい侍を見初め、その形見として金地に朝顔の花を描いた扇を貰い受け生き別れとなる
後に深雪は親の進める縁談の相手「駒沢次郎佐衛門」が改名した阿曽次郎とも知らず、阿曽次郎を慕って家出をする
恋する男を求めて流浪するうちに盲目となっても行方をたずねる。果ては「露の干ぬ間」の唱歌を琴に合わせて唄う朝顔と呼ばれる門付けとなる
阿曽次郎は公用で江戸へ向かうが同行の同輩岩代多喜太が意地悪な目を光らせている
島田の宿で阿曽次郎は盲目の女芸人を呼んで琴を弾かせ、偶然にその女が朝顔と名乗るようになった深雪だとわかる
だが阿曽次郎は同輩の手前もあって名乗るに名乗れず出発する
阿曽次郎が残していった品々から恋い焦がれた人と知って狂気のごとく後を追った朝顔は大井川の川止めにあい、悲嘆のあまり死のうとするが
阿曽次郎の残していった薬で両目がよくなり、尚も阿曽次郎の後を慕って行くというのが芝居の流れです

 

「越後の国」

越後の国の 角兵衛獅子 国を出る時ゃ 親子連れ
獅子をかぶって コリャでんぐり返って
ちょいと立ちまする 親父ゃまじめに 笛を吹く
ドドンガヤッサ ドガヤッサ

越後獅子は越後国(新潟県)蒲原地方の郷土舞踊の獅子舞が諸国を廻る門付け芸となったもの
京では「越後獅子」江戸では親方の角兵衛をとって「角兵衛獅子」と呼ばれた

 

「おんことこと」

一、おん琴ことこと ちょいと三味よ ちょいとした端唄で ちょいと鼓
  トッチリ大鼓 スタスタスタ デンデンデンデン 太鼓の音
  ちょいとした胡弓で ちょいと笛よ

二、桐に鳳凰 つばめ鳥 つばめに柳は 梅の枝
  梅に鴬 ホーホケキョ 牡丹に蝶々 獅子頭
  猫またねずみに かつおぶし

三、うさぎの鉢巻き そりゃ勇み 勇みの蒲焼き そりゃ鰻
  鰻は風吹く そりゃ南 南は恐いもの そりゃ津波
  津波は忠臣蔵 そりゃ小波

四、番頭が竿さしゃ そりゃ船頭 船頭が撞木杖 そりゃ検校(けんぎょう)
  検校は池に住む そりゃ金魚 金魚喰や若くなる そりゃ人魚
  人魚は楽なのも そりゃ隠居

五、屏風が衣着る そりゃ坊主 坊主は紙を貼る そりゃ生麩
  生麩は帷子 そりゃ上布 上布は四角い物 そりゃ豆腐
  豆腐までいうても きりがない

この曲は明治から昭和の始めにかけて邦楽の稽古事を習わす曲として使われ、当時は琴、三味線、鼓、太鼓、胡弓、笛や唄を唄う姿勢など、
邦楽の基本的動作や形をこの曲によって教えこんでいました。二番以下は尻取り唄で、当時の風物を飄逸な口調で唄っています。

 

「今朝の雨」

今朝のナ 雨にしっぽりと また居続けに 
長き日を 短う暮らす 床の内
紙を引き裂き 眉毛をかくし
もし こちの人へ わたしの替名は 何としょう
あれ寝なんすか 起きなんし 曙ならで 暮れの鐘

この唄は安政三年(1856年)四月江戸中村座で「一曲奏子宝曽我(ひとかなでこだからそが)」上演の時に作られた江戸端唄
唄の意味は春雨の降る廓の夕暮れ、ずっと床を敷いたままで居続けをする五暁と瀬川とのやりとりを唄ったもの
アレまた寝なんすか 起きなんし:瀬川の耳に聞こえるのは、明けの鐘ではなく暮れ六つの鐘
紙を引き裂き 眉毛をかくし:江戸時代の人妻は眉毛を剃り、歯ををお歯黒に染めた 
              遊女の瀬が五暁に向かって年期が明けてお前と一緒になる時はこうして、と紙で眉毛を隠して見せるところ
こちの人:廓言葉ではなく妻が夫を呼ぶ言葉
わたしの替名は何としょう:素人になった時の名は何にしたら良いでしょうかと、二人が晴れて所帯を持つ日の夢を語り合うところ

 

「五本松くずし」益田太郎冠者:作詞・作曲

一、アー南無妙法蓮華経こそ 一代大菩薩と 唱えるよりも
  あなたと私の むつごとは オヤマ ホントニマ ありがたいよ

二、アー四海波謡うて 貰うた女房でさえも 切れる時ゃ切れる
  まして我々風情の 口約束では尚のこと オヤマ ホントニマ じれったいですネ

島根県民謡「関の五本松」をもとに作られています
むつごと:むつまじく語る言葉、特に男女の「閨(ねや)」(寝室)の中での語らい
四海波謡う:婚礼の時に謡う「高砂」のこと

 

「桜見よとて」

桜見よとて 名をつけて
まず朝桜 夕桜 よい夜桜や 間夫は昼廓へ
エーどうなと首尾して 逢わしゃんせ
何時じゃ オヤ引け過ぎじゃ 誰哉行燈 ちらりほらり 金棒引く

当時の江戸で若旦那が取り巻きを連れて、朝から家を出て上野か飛鳥山の花見に繰り出した揚げ句に、向島の夕桜から吉原の夜桜まで延びてしまった
遊女から「間夫は引けすぎ、という諺もありんす通り、情人は宵のうちには来ないで引けすぎにゆっくり逢いに来るもんざます
主さんも今夜はどうぞ首尾して(都合をつけて)、わちきの間夫になっておくんなし」という甘い口調に乗せられて、
とうとう引けすぎまで遊んでしまったという呑気な時代の花見風俗を唄ったものでしょう
頭から「間夫の昼廓とえ」までが男、「ええどうなと首尾して逢あしゃんせ」は女、「何時じゃ」が男、「引けすぎじゃ」が女となる
すでに仲の町一帯の辻行燈の灯も消えかかり、人影もまばらに廓内の夜警の持つ金棒を引く音も早立って来るというのが「誰哉行燈ちらりほらり、金棒引く」である
間夫:情夫、特に遊女の情夫
引け:張見世の遊女が一斉に座敷なり、部屋へ下がる時刻のこと=夜中12時
   昼は九つより七つ(正午~四時)夜は六つより四つ(六時~十時)
誰哉行燈(たそやあんどん):江戸時代に使用された行灯「誰哉」とは古語で「どなた」の意
              江戸の夜は暗く、日がとっぷり暮れると通りすがりの人の顔も見分けられないほどで、「あなたはどなた」と尋ねなければならなかった
              黄昏(たそがれ 誰そ彼は、の意)なども同じ仲間のことば その薄暮に行灯の油に火を灯点したのが誰哉行灯

 

「字余り都々逸」

一、洗い髪の投げ島田を 根からぷっつり切って 男の膝へたたきつけ
  これでも浮気がやまないならば 芝居のお化けじゃないけれども
  ヒュードロドロと 化けて出る ハァー ア コリャコリャ

二、これはこれは御両所様には 見苦しきあばら屋へ ようこそ御入来
  ほんのささいな内緒事 おかまいなくとも お通りあって
  お煙草なりとも 召し上がれ ハァー ア コリャコリャ

三、あたしゃ紋付き おとっつぁんは米つき おっかさんは嘘つき
  姉さんが色気づき そのまた妹が狐つき ハァー ア コリャコリャ
  

「都々逸」は俗曲の王座を占める唄で、曲は本調子で七、七、七、五、の四句二十六文字を本格としています
これを当時の通人たちがわざと二十六文字より字を多くしてケレン風に唄うことを試みたのがこの「字余り都々逸」で、
この方が面白おかしく、また、乙に聞こえると大変流行しました
特に二番の「これはこれは ご両所様には」は「仮名手本忠臣蔵」六段目「与市兵衛 住家の場」で、不破数右衛門、千崎弥五郎の二人侍が訪ねてきた時の
早野甚平のセリフをとった面白いもので、「おかまいなくとも」までが本文の通りで、「お通りあって」以下は都々逸の文句になっています

 

「粋な浮世」

粋な浮世を 恋ゆえに 野暮に暮らすも 心がら
梅が香そゆる 春風に 二枚屏風を おしへだて
おぼろ月夜の 薄明かり 忍び忍んで 相惚れの
口説の床の 涙雨 池の蛙も 夜もすがら
しんに啼くでは エーないかいな

当時花柳界の巷で遊ぶ男女はその日その日の風次第、柳々で世を面白く遊ぶのが「粋」で、この間に恋を求める事を「野暮」の至りとされていた
ここで唄われた二人は何の因果か互いに命までも惚れ合っている野暮な仲で、梅の花が香る夜にとある一室で忍び逢う場面を唄ったもの
口説:おしゃべり
夜もすがら:日暮れから夜明けまで 一晩中

 

「大工さん」

一、恋の深さを 恋の深さを 大工さんに問えば
  大工さんも頭領さんも アンあっきれけって
  のみかんな すみつぼ差し金 投げ出した
  トナットナット 学生納豆 甘納豆

二、選挙どこへ行く 選挙どこへ行く 陣笠かぶり
  有権者の玄関先 がんがんがらがんの 火事見舞い
  トナットナット 学生納豆 甘納豆

三、はげた頭へ はげた頭へ 灸(やいと)をすえて
  熱けりゃ 汗出せ
  じゅんじゅんじゅらじゅんの じゅっと消えまする
  トナットナット 学生納豆 甘納豆

出だしの「恋の深さを~」を原唄では「穴の深さを~」と唄っていました
これは建築する土台の深さを恋の深さにかけたものですが、のちに「恋の深さを~」と唄うようになりました
学生納豆:大正7,8年頃から東京市内で苦学生が夕方苞(つと)に入った納豆を売ることが流行した
     「ナットナット・・」は学生納豆の売り声

 

「手古舞木遣り」たなかゆきを:作詞・初代藤本琇丈:作曲

お江戸名物 神田の祭り 葛西繰り出す 馬鹿囃子
喧嘩御輿と 屋台の仲を つなぐ手古舞 木遣り節
ヤーンリョー 粋じゃないかえ つぶし髷

 サーエー格子づくりに 御神灯下げて 兄貴ゃ家かと 姐御に問えば
 兄貴ゃ二階で 木遣りの稽古 音頭とるのは ありゃうちの人
 エンヤラネ サノヨイサ エンヤラネ エンヤラヤレコノセ サノセ
 アレワサエンヤラネ

きつね格子に 江戸紫の 幕が景気に 色添える
辰巳育ちの 気っ風の良さに 祭り化粧が また映える
ヤーンリョー 花の手古舞勢揃い

神田明神の祭礼と土地の芸妓連の手古舞姿に「木遣りくずし」をからませた新作で昭和48年につくられました
手古舞:江戸時代の祭礼の余興に出された舞でもとは氏子の娘が扮しましたが、
    後に土地の芸妓が男髷(つぶし髷)に右肌ぬぎの美しい格好で、牡丹の花を画いた黒塗りの扇を持って扇ぎながら
    「木遣り節」を唄って出るようになりました
きつね格子:格子の裏に格をはったもの、妻飾りの格子、神社住宅などに多く用いる
御神灯:神に供える燈火、みあかし 職人芸人などの家で縁起をかついで戸口につるした神神灯

 

「なんとしょ節」志賀廼屋 淡海:作詞・作曲

一、西瓜屋の向かいに 西瓜屋が出来て
  西瓜同士の アアアー 差し向かい なんとしょう

二、うらやましいぞえ 名古屋の城は
  いつも変わらず アアアー しゃち向かい なんとしょう

三、びくを片手に 釣り竿かつぎ
  コイは釣れない アアアー ものかいな なんとしょう

四、松のぐるりに 胡桃を植えて
  マツより クルミは アアアー なおつらい なんとしょう

この唄は民謡の「淡海節」で有名な志賀廼家淡海師の作詞・作曲で初代藤本琇丈師が「淡海節」と共にご本人より伝授されたもの

 

「一声は月」

一声は 月が鳴いたか ほととぎす
いつしか白む 短夜に まだ寝もやらぬ 手枕や
男心はむごらしい 女心はそうじゃない
片時逢わねばくよくよと 愚痴なようだが 泣いているわいな

安政四年(1857)五月、江戸市村座「時鳥酒杉本」(お梅粂之助)上演の時に作られた江戸端唄で清元の「流星」の中にも採り入れられている
この唄はお梅が松賀屋の寝間で粂之助を想って寝もやらず、夏の短夜を明かす切ない女心を唄ったもの
一声は月が啼いたか 時鳥:一晩中寝もやらぬ耳に時鳥の鳴き声を聞く はっと思って障子を開け今啼いた時鳥はどこかと見れば、
声はすれども姿は見えず、ただ有明の月だけが残っている、という情景が唄われています
手枕:うたた寝

 

「冬の寒さ」

冬の寒さに 主を囲いの 四畳半
そして袱紗捌きの 胸の内
しっぽりと投げ島田 引き寄せてアレサ

「夏の暑さ」の替え唄
袱紗捌き(ふくささばき):茶の湯で袱紗の扱い方
             袱紗=茶の湯で茶器の塵をはらい、茶碗を受ける絹布
投げ島田:女性の髪の結い方の一つ 
     髻(もとどり)の根を下げて結う 島田まげ

 

「柳々」

柳々で世をおもしろう うけて暮らすが 生命のくすり
梅にしたがい 桜になびく その日その日の 風次第
うそもまことも 義理もなし はじめは粋に 思えども
日増しに惚れて つい愚痴になり 寝床の床の 浮き思い
どうした日和の ひょうたんか あだ腹のたつ 月じゃえ

文化文政年間の上方の名優三世「中村歌右衛門」の作詞、祇園の芸妓「ゆかえ」の作曲といわれている
一説によると大阪の豪商、吉野五運(よしのごうん)(吉野で桜、替紋は瓢箪)の寵妓であったゆかえが五運の贔屓する歌右衛門(俳号・梅玉)と
恋仲になってしまったので五運が粋をきかして、ゆかえと歌右衛門を一緒にしてやった事を唄ったのではないか・・・
曲はゆかえの女心を唄ったもので「柳々~義理もなし」までは祇園の遊び女(あそびめ)として桜(五運)と梅(歌右衛門)の座敷を勤めていたが
「はじめは粋に・・・」からは歌右衛門に強く惹かれていくという内容であろう

 

「淀の川瀬」

淀の川瀬のナ 景色をここに 引いて上る ヤレ 三十石船に
清き流れを 汲む水車 めぐる間ごとは みな水馴れ棹
さいた盃 おさえてすけりゃ 酔うて伏見へ くだまき綱よ
こうした所が 千両松 ヨイヨイヨイヨイヨイヨ

この唄は淀川を通う三十石船と沿岸の水車の風景を唄ったもので、幕末に作られた端唄で後にうた沢でも唄われ大変流行しました
三十石船:積み荷の石数三十石の川船の事で、江戸時代に荷物と客を乗せて大阪~伏見の間の淀川を往復していました
酔うて伏見へくだまき綱よ:船中の乗客が酔って管を巻くことと、船が千両松を目印に伏見の船着場に巻綱を巻く事をかけたもの

 

「わしが国さ」

わしが国さで 見せたいものは
昔ゃ谷風 今伊達模様 
ゆかし懐かし 宮城野信夫
浮かれまいぞえ 松島ほとり しょんがえ

この唄は「さんさ時雨」と同じく仙台地方の俚謡だったものを、幕末の江戸で端唄、うた沢で取り上げ一名「わしくに」といって流行しました
谷風:仙台候の抱え力士、二代目谷風梶之助のこと 宮城県で生まれ江戸へ出て我が国初めての横綱となった人
伊達模様:寛永三年二条城行幸の折りに伊達政宗の家臣がみな華美な服装だったので、京童があれは伊達者(だてもの)と言い始めたのが始まりで
     大形で華奢な模様を指す
ゆかし:何となく知りたい、見たい、聞きたい、好奇心が持たれる
宮城野信夫:奥州白石の農家の娘、宮城野と信夫が江戸へ出て父の敵を討った物語 歌舞伎「揚屋」
松島:日本三景の一つ、松島湾の風景を指している